アウシュヴィッツ・ビルケナウ-ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940年-1945年)~ポーランドの世界遺産と歴史~世界遺産旅行記へようこそ

「「アウシュヴィッツ・ビルケナウ-ドイツ・ナチの強制・絶滅収容所(1940年-1945年)(Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau)」は、第二次世界大戦中のアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツが百万人以上におよぶ人々を虐殺した絶滅収容所ですね。」
「そうですね。」
「ナチス・ドイツと言えば、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権を掌握していた1933年から、第二次世界大戦の敗北によってナチ党政権が崩壊する1945年までのドイツ国を指す呼称である。」
「アドルフ・ヒトラーと言えば、アドルフ・ヒトラー(1889年4月20日 - 1945年4月30日)は、オーストリア=ハンガリー帝国生まれのドイツの政治家、国家元首である。指導者原理に基づく党と指導者による独裁指導体制を築いたため、独裁者の典型とされる。日本においてはヒットラーとも表記される。」
「第二次世界大戦と言えば、1939年から1945年の6年にかけ、ドイツ、日本、イタリアの三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス連邦、フランス、ソビエト連邦、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の戦争である。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、仏英による対独宣戦布告とともにヨーロッパ戦争として始まり、1941年12月の日本と米英との開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の戦争となった。」
「アウシュヴィッツ・ビルケナウ-ドイツ・ナチの強制・絶滅収容所と言えば、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所は、ドイツが第二次世界大戦中に国家をあげて推進した人種差別的な抑圧政策により、最大級の惨劇が生まれたとされる強制収容所である。アウシュヴィッツ第一強制収容所はドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ)に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)につくられた。周辺には同様の施設が多数建設されている。」
「「第二次世界大戦における悲劇の証拠であり後世に語り継ぐべきもの」として、ユネスコの世界遺産に「負の文化遺産」として登録されましたよ。」
「はい。」
「第二次世界大戦と言えば、1939年から1945年の6年にかけ、ドイツ、日本、イタリアの三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス連邦、フランス、ソビエト連邦、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の戦争である。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、仏英による対独宣戦布告とともにヨーロッパ戦争として始まり、1941年12月の日本と米英との開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の戦争となった。」
「その収容所は、ポーランドの最南端、チェコとスロバキアとの国境が接する位置にありますよ。」
「はい。」
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【目次】アウシュヴィッツ・ビルケナウ-ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940年-1945年)
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「鉄道の接続が良いばかりでなく、炭鉱などの資源もありますよ。」
「そうなんですか。」
「「戦争遂行に欠かせない物資の生産を行うのに適している」ことから開設されましたよ。」
「そうなんだ。」
「そして、大量の物資の生産を行うための労働力として「ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜」などが収容されましたよ。」
「はい。」
「ロマ・シンティ(ジプシー)と言えば、ロマ(Roma)は、ジプシーと呼ばれてきた集団のうちの主に北インドのロマニ系に由来し中東欧に居住する移動型民族である。ロマと同根のロマニ系の集団としてはヨーロッパでは中欧のドイツ語圏を中心にシンティ、イギリスにロマニチャル、 仏語圏にマヌーシュ 、 北欧やイベリアなどのカーレなどが知られている。シンティの祖先はパキスタン南東部のシンド地方に起源を持つともいわれる。」
「このような差別を可能にしたのが、「アーリア人至上主義」というものですよ。」
「はい。」
「アーリア人至上主義と言えば、ナチス党が政権を掌握して国民を厳しく統制したナチズムは、近代の代表的な ファシズム(全体主義)であり、ドイツ第三帝国における『アーリア人(ゲルマン人)至上 主義』というナショナリズムの基盤に基づいて先鋭化したイデオロギーである。」
「アーリア人の代表であるドイツ人以外の民族を国内から締め出し、この収容所に送り込むことによって、大量の労働力を得ようとしましたよ。」
「そうなんですか。」
「さらに、主にポーランド人とユダヤ人を対象にした、民族完全絶滅のための集団虐殺計画が実行されましたよ。」
「そうなんだ。」
「その迫害はすさまじいものでしたよ。」
「はい。」
「SS(ヒトラーの親衛隊)によるユダヤ人狩りの様子は「アンネの日記」に書き残され、読む者の心を痛め悲しめ「二度とこうした悲劇が繰り返されないように」との思いを強くさせますね。」
「はい。」
「アンネの日記と言えば、ユダヤ系ドイツ人の少女アンネ・フランクによる日記様の文学作品である。第二次世界大戦の最中のドイツによる占領下のオランダ、アムステルダムが舞台となっている。ドイツによるユダヤ人狩りを避けるために咳も出せないほど音に敏感だった隠れ家に潜んだ8人のユダヤ人達の生活を活写したもの。」
「SS(ヒトラーの親衛隊)と言えば、親衛隊は、ドイツの政党、国家社会主義労働者党の組織である。元は総統アドルフ・ヒトラーを護衛する党内組織(親衛隊)として1925年に創設された。」
「ここで失われた命が幾らなのかは、正確には把握されていませんね。」
「そうなんですか。」
「近年の調査では、およそ140万人であったと推定されていますよ。」
「そうなんだ。」
「アウシュヴィッツ・ビルケナウ-ドイツ・ナチの強制・絶滅収容所に移送されてきた人々の中で、真っ先に命を奪われたのは「女性、子供、老人」であったと伝えられていますよ。」
「はい。」
「「労働力にならない者」として、真っ先にガス室へ送られて殺戮されましたよ。」
「それはひどいですね。」
「書類に記載されることもなく殺された、この人たちの数は全く不明ですよ。」
「そうなんだ。」
「30分で800名ずつ殺害出来たという第二強制収容所などのガス室で殺され、焼却場で焼き捨てられましたよ。」
「そうなんだ。」
「ガス室送りを免れた人々は、約40万人と伝えられていますよ。」
「はい。」
「「政治犯」「一般犯罪者」「移民」「同性愛者」、さらには「ユダヤ」などに登録されてから作業場へと割り振られて行き、強制労働に就かされましたよ。」
「はい。」
「しかし、あまりに劣悪な環境のなかで、次々と人々は倒れていきましたよ。」
「そうなんだ。」
「終戦後の1945年の1月27日に開放された時、そこに生き残っていたのは、わずか7500人でしたよ。」
「そうなんですか。」
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