セルビアのストゥデニツァ修道院~世界遺産旅行記へようこそ

「世界遺産ストゥデニツァ修道院は、セルビア中央部のクラリェヴォの南西39kmに位置していますよ。」
「はい。」
「セルビア中央部のクラリェヴォと言えば、クラリェヴォは、セルビアにある都市および基礎自治体で、イバル川河畔にあり西モラヴァ川との合流地点から西に7kmの場所に位置する。南側のストロヴィ山と北側のコトレニク山の間の盆地に位置している。2011年現在の人口は基礎自体全域で124,554人、市街で63,030人で、ラシュカ郡の行政的な中心都市となっている。」
「ストゥデニツァ修道院と言えば、ストゥデニツァ修道院は、セルビア中央部、クラリェヴォの南西39 km に位置するセルビア正教会の修道院で、セルビア正教会の修道院としては最大級のものである。この修道院は中世セルビア王国の建国者であるステファン・ネマニャが1190年に設立したものである。修道院は城壁で囲まれ、生神女聖堂と「王の聖堂」という、ともに白い大理石でできた二つの付属聖堂を擁している。」
「セルビアと言えば、セルビア共和国、通称セルビアは、南東ヨーロッパ、バルカン半島中西部の内陸に位置する共和制国家である。かつてのユーゴスラビアに属した地域の中央に位置しており、政治的にもその中心となる国であった。首都ベオグラードは、ユーゴスラビア誕生以来2006年にセルビア・モンテネグロが解体されるまで、一貫して連邦の首都であった。2006年6月3日のモンテネグロの分離独立に伴い独立宣言をした。セルビア内のコソボ・メトヒヤ自治州がコソボ共和国として事実上独立状態にある。」
「風光明媚なイバル川峡谷の近く、ストゥデニツァの河畔に高い防壁に囲まれて建てられていますよ。」
「はい。」
「イバル川と言えば、プリシュティナのあるコソボ平原は標高600mで、鉱物資源に富み、褐炭、鉛、亜鉛、ニッケルは国内の50%近くを埋蔵する。イバルIbar川をはじめ多くの川で灌漑され、小麦、トウモロコシ、大麦が栽培されている。戦後プリシュティナは大学、飛行場をもつ中都市に変貌した。」
「中世セルビアの最も重要な修道院ですよ。」
「そうなんですか。」
「セルビア正教会の修道院としては最大級のものとされ、セルビア人の精神と芸術の中心地となっていますよ。」
「はい。」
「セルビア人と言えば、セルビア人は、主にセルビアやボスニア・ヘルツェゴビナのスルプスカ共和国を中心に住む南スラブ人である。血統や言語はクロアチア人・ボシュニャク人(ボスニア人)とほぼ同じだが宗教が異なる。セルビア人には正教会信徒が多い。」
「セルビア正教会と言えば、セルビア正教会は、セルビアを中心にセルビア人の間で信仰されている正教会の一組織であり、独立正教会の一つである。正教会は一カ国に一つの教会組織をそなえることが原則だが(セルビア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。」
「セルビア国家を設立し、セルビアを200年間にわたり統治したネマニッチ朝の創始者、ステファン・ネマニャの寄進で、1190年に建立されましたよ。」
「はい。」
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「セルビア国家を設立しセルビアを200年間にわたり統治したネマニッチ朝と言えば、南スラヴ(ユーゴスラヴ)の一派であるセルビア人は7世紀初め頃にバルカン西部に南下し、9世紀後半には東ローマ帝国の影響下で正教会を受入れた。セルビア人は長くジューバと呼ばれる部族共同体に分立していたが、12世紀後半に東ローマ帝国の衰退に乗じてステファン・ネマニャが1168年に諸部族を統一してセルビア侯となる。その後、拡大した勢力を背景として1171年には国王として即位し、ネマニッチ朝を開いた。」
「セルビア国家を設立しセルビアを200年間にわたり統治したネマニッチ朝の創始者ステファン・ネマニャと言えば、ステファン・ネマニャ(1113年 - 1200年)は、セルビア王国ネマニッチ朝の創始者である。在位1171年 -1196年。1168年、兄を殺してセルビア侯として即位する。その後セルビアの諸部族を統一、宗主であった東ローマ帝国との長い戦いに勝利し、1171年には独立の君主、セルビア王ステファン1世として即位しネマニッチ朝を開いた。」
「建立から今日に至るまで、ストゥデニツァ修道院は一度も修道院としての役割を失ったことはありませんよ。」
「はい。」
「世界遺産ストゥデニツァ修道院は、生神女教会と王様の教会という、共に白い大理石でできた二つの付属教会を擁していますよ。」
「そうなんだ。」
「世界遺産ストゥデニツァ修道院の「王様の教会」と言えば、ストゥデニツァ修道院は、風光明媚なイバル川峡谷の近く、ストゥデニツァの河畔に高い防壁に囲まれて屹立しています。修道院敷地内にミルティン王の寄進による1314年に建立された「王様の教会」があり、内壁に目を見張るように美しいフレスコ画が描かれています。」
「世界遺産ストゥデニツァ修道院の「生神女教会」と言えば、ストゥデニツァ修道院は、風光明媚なイバル川峡谷の近く、ストゥデニツァの河畔に高い防壁に囲まれて屹立しています。セルビアの多くの統治者はネマニッチ王朝の創始者が寄進し、一族の永眠の地であるストゥデニツァ修道院に刺激を受け、数多くの霊廟が敷地内にある生神女教会を模して建立されました。生神女教会はラシュカ派の最も重要な建築様式です。ビザンチン式の建物配置と、ロマネスク建築から取り入れた大理石の外壁の建物を持つストゥデニツァ修道院は、中央ヨーロッパ建築の傑作と讃えられています。」
「生神女教会は、ドームを備えた単一の身廊を持つバシリカ式の付属教会ですよ。」
「はい。」
「バシリカ式と言えば、初期キリスト教時代に、集中式教会堂とバシリカ式教会堂という、二つの教会堂の形式が生まれた。集中式は主として東方で発展し、バシリカ式は西方で発展した。バシリカ式は東西に長い平面をもつ。一般に西側に入口をもち、東側に聖職者が礼拝を行う内陣がある。バシリカ式の特徴は、外陣の空間構成にある。すなわち、身廊という中央空間の両側に側廊という副次的空間を配し、それぞれの間はアーケードで区切られる。身廊は側廊より高い空間で、最上部に窓が開く。」
「身廊と言えば、身廊(しんろう)は、ロマネスク様式やゴシック様式のキリスト教建築の一部分の名称で、入口から主祭壇に向かう中央通路のうちの翼老廊に至るまでの部分を指す。ロマネスク、ゴシック、古典建築のいずれの様式においても、修道院 (abbey)、大聖堂 (cathedral)、バシリカ (basilica)、教会堂 (church) といったキリスト教建築では、入口(拝廊がある場合もある)から内陣に向かっていくつかの廊が伸びている。」
「その東端には、三面を持つ後陣がありますよ。」
「はい。」
「拡張された拝廊は西を向き、北側と南側にはそれぞれ玄関ホールがありますよ。」
「そうなんだ。」
「1230年代には、大きなエクソナルテクスが加えられましたよ。」
「はい。」
「エクソナルテクスと言えば、生神女聖堂は、ドームを備えた単一の身廊を持つバシリカ式の付属聖堂である。その東端には三面を持つ後陣があり、拡張された拝廊は西を向いている。北側と南側にはそれぞれ玄関ホールがある。1230年代には大きなエクソナルテクスが加えられた。ファサードには白い大理石の板が用いられ、聖堂内部は凝灰岩のブロックで覆われている。」
「建築物の正面のデザインには、白い大理石の板が用いられていますよ。」
「はい。」
「教会内部は、凝灰岩のブロックで覆われていますよ。」
「そうなんだ。」
「凝灰岩と言えば、凝灰岩(ぎょうかいがん)は、火山から噴出された火山灰が地上や水中に堆積してできた岩石である。成分が火山由来であるが、生成条件から堆積岩(火山砕屑岩)に分類される。」
「外観上は、ロマネスク様式とビザンティン様式とが見事に調和して、ラシュカ派という独特の形式で呼ばれ、その中でも最も重要な建築様式とされていますよ。」
「はい。」
「ラシュカ派という独特の形式と言えば、生神女聖堂は、ドームを備えた単一の身廊を持つバシリカ式の付属聖堂である。外観上は、ロマネスク様式とビザンティン様式とが見事に調和している。この調和が、やがてはラシュカ派と呼ばれる独特の形式に昇華したのである。」
「ビザンティン様式と言えば、ビザンティン様式は、コンスタンチノープルを中心四世紀から六世紀にかけて発達し、15世紀中頃まで栄えたキリスト教建築様式である。大ドームをのせた集中式教会堂建築が特色。内部は金地の華麗なモザイク、大理石の張り石などで装飾される。」
「ロマネスク様式と言えば、ロマネスク様式は、10世紀末から12世紀にかけてヨーロッパ各地に見られた建築・美術様式である。建築物は石造の厚い壁や半円アーチを持つのが特徴。フランスのサン・トロフィーム教会、イタリアのピサ大聖堂、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂などが代表例。」
「ビザンチン式の建物配置と、ロマネスク建築から取り入れた大理石の外壁の建物を持つス世界遺産のトゥデニツァ修道院は、中央ヨーロッパ建築の傑作と讃えられていますよ。」
「はい。」
「ロマネスク建築と言えば、ロマネスク建築は、 中世西ヨーロッパの建築様式である。時代区分としては、おおよそ1000年から1200年頃までのゴシック建築以前の建築を指す。最初のヨーロッパ建築と言っても過言ではない。同時代のビザンティン建築と同じく、教会堂建築において最高の知識・技術・芸術が集約されており、彫刻や絵画は聖堂を装飾するための副次的要素であった。」
「生神女教会の北西には、国王ミルティンの寄進により1314年に建立され、ミルティン王に因んで「王様の教会」として知られている、聖イオアキム・聖アンナ教会がありますよ。」
「そうなんですか。」
「聖イオアキム・聖アンナ教会と言えば、生神女聖堂の北西には、創建者である国王ミルティンに因んで「王の聖堂」として知られている聖イオアキム・聖アンナ聖堂が残っている。この聖堂は1314年に建てられたもので、上から見ると圧縮した十字架型になっており、外観上八角形のドームを備えている。石と凝灰岩で作られており、ファサードには漆喰が塗られている。」
「国王ミルティンと言えば、ステファン・ウロシュ2世ミルティン(1253年 -1321年10月29日)は、セルビア王国の王(在位1282年 - 1321年)である。バルカン半島南部に領土を拡大し、「セルビアとフム、ディオクレア、アルバニアの地、及び沿岸地方の王」を称した。」
「上空から見ると縮めた十字架型になっていますよ。」
「はい。」
「外観上、八角形のドームを備えていますよ。」
「はい。」
「石と凝灰岩で作られており、正面のデザインには漆喰が塗られていますよ。」
「そうなんだ。」
「内壁に13世紀から14世紀にかけてのビザンティン美術の精華と見られる、目を見張るように美しいフレスコ画が描かれていますよ。」
「はい。」
「フレスコ画と言えば、フレスコ(英語:fresco、イタリア語:Affresco)は、絵画技法のひとつである。この技法で描かれた壁画をフレスコまたはフレスコ画と呼ぶ。西洋の壁画などに使われる。語源はイタリア語の "fresco" (「新しい」「新鮮な」という意味)である。」
「ビザンティン美術と言えば、ビザンティン美術は、5世紀から15世紀の東ローマ帝国で発達した美術の体系である。古代のギリシア美術、ヘレニズム美術、ローマを継承しつつ、東方的、キリスト教的要素を含んだ独特な体系を産んだ。日本ではビザンツ美術と呼ぶことも多い。」
「ストゥデニツァ修道院の建造物群には、後一つ、付属教会が残っていますよ。」
「はい。」
「ストゥデニツァ修道院と言えば、ストゥデニツァ修道院は、セルビア中央部、クラリェヴォの南西39 km に位置するセルビア正教会の修道院で、セルビア正教会の修道院としては最大級のものである。この修道院は中世セルビア王国の建国者であるステファン・ネマニャが1190年に設立したものである。修道院は城壁で囲まれ、生神女聖堂と「王の聖堂」という、ともに白い大理石でできた二つの付属聖堂を擁している。」
「聖ニコラス教会は、一つの小さな身廊を持つ教会ですよ。」
「そうなんだ。」
「聖ニコラス教会と言えば、聖ニコラス教会は、セルビア正教会で最も重要な教会で中世セルビア王国の国王の戴冠式が行われた。」
「内部のフレスコ画は、12世紀か13世紀初頭以降に作成されたと考えられていますよ。」
「はい。」
「聖ニコラス教会と聖イオアキム・聖アンナ教会の間には、前駆授洗イオアン協会の建造物もありましたよ。」
「はい。」
「前駆授洗イオアンと言えば、洗礼者ヨハネ(BC6-2年頃~36年頃)は、『新約聖書』に登場する古代ユダヤの宗教家・預言者である。個人の回心を訴え、ヨルダン川でイエスらに洗礼を授けた。『新約聖書』の「ルカによる福音書」によれば、父は祭司ザカリア、母はエリサベツ(エリザベト)。バプテスマのヨハネ、洗者ヨハネとも。正教会ではキリストの道を備えるものという意味の前駆(Forerunner)の称をもってしばしば呼ぶ。日本ハリストス正教会での呼称は前駆授洗イオアン(ぜんくじゅせんイオアン)。」
「しかし、最大で13あったとされる付属教会の残りは、今は残っていませんよ。」
「そうなんだ。」
「ストゥデニツァ修道院の見所は、やはり素晴らしいフレスコ画ですよ。」
「そうなんですか。」
「各教会に残るビザンティン美術の到達点と言われる芸術品の数々を、世界遺産の持つ独特の雰囲気の中で鑑賞してみましょう。」
「わかりました。」
「きっと、心が洗われるはずですよ。」
「そうですね。」
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